金曜日, 8月 31, 2007

ホームページ改造終了

ブログやMixiをやり始めて、そろそろ1年近くになる。その間に書いた日記は何本になるかわからないが、それを少し整理してホームページを改造してみた。

これまでは「ぶらり温泉ひとり泊」「オークランド・アスレチックス ファンページ」「東京第一検察審査会」「勝手きままにコラム」の4本立て構成だったが、今回はそれに「碑文谷&鷹番・東横線沿線(地元話)」「クラシック音楽鑑賞記録」の2本を付け加えた。

「碑文谷&鷹番・東横線沿線(地元話)」はブログのページと直接リンクさせている。このことによって、写真掲載などもそのままになるので、視覚的にも楽しめる。一方、「クラシック音楽鑑賞記録」はMixiに書いた原稿を少し加筆訂正して、記録として保存していきたいと考えている。いずれ可能な限りの写真もつけ加えたい。

今回1年ぶりにホームページの大改造を行ったが、しばらくレイアウトをやっていなかったので、最近は深夜遅くまで時間をかなり費やしてしまった。ブログやMixiは書き流しでOKだがホー厶ページはそうはいかない。全く面倒である。でもよくもまあ、こんな面倒なことを10年もやっているかと思うと我ながらつくづく関心する。

http://www.macnet.or.jp/co/ok21/

木曜日, 8月 30, 2007

惨めな世界陸上 ぶざまなTBS

大阪で開かれている世界陸上が惨めでならない。メダルが期待されていた男子ハンマー投げの室伏広治は6位、男子400メートル障害の為末大、女子走り幅跳びの池田久美子らはいずれも予選落ち。男子200メートルの末続慎吾も準決勝にすら進めなかった。地元開催という地の利を全くいかしきれていない。

ただ惨めなのはこうした選手の成績だけではなく、あまりの観客動員の少なさも同様である。真夏にやる大会だから、観客数がある程度は減るのは仕方がないが、あまりにも空席が目立つ。その最大の理由はおそらくチケット代が高いからであろう。いくら夕方からの少しは涼しくなる時間帯といっても、チケットを4000円から17000円も払って見にいくであろうか。世界最高峰の大会といえども、8月という時期とシブチンの土地柄を考えれば、この値段では集客は難しい。加えて、日本選手団の不振である。これでは主催者側は赤字になるのではないだろうか。

こうした大会運営の惨めさに輪をかけてぶざまなのがTBSだ。TBSはこの大会のオフィシャルIAAFブロードキャスターとして、国内の独占放映権を得ているばかりでなく、海外放送の製作も行っている。しかし、先日中継スタッフが食中毒になって、大阪市保健所によると中継に携わっていた男女計57 人が発症して、このうち症状が重かった13人が入院したという。

まあ、このことはTBSだけの責任ではなく、仕出し業者が悪いのだからまだいいが、放送内容はから騒ぎバカ騒ぎのオンパレードでお寒い限りだ。ハイテンションで何を言っているのかわからない織田裕二。あとは訳のわからない、的を得たことを話せないレポーターという名のおねえちゃんがキャバクラまがいで勢ぞろい。こんなにスポーツの醍醐味を伝えられない番組を見たことがない。正直ぶざまである。

いずれにしろ、日本選手の成績が振るわない要因のひとつは、TBSに大会前に宣伝のために振り回されたことにあるのは言うまでもない。選手たちに鎧甲まで着せてポスターを撮ったり、いろいろな番組やイベントに出演させたりして、選手たちは明らかに体調管理を妨げられたに違いない。

大会はまだ続いているが、世界陸上を惨めなもにした責任は主催者とTBSにあることは誰の目には明らかであろう。

水曜日, 8月 29, 2007

朝青龍より高砂親方の方が

客A「朝青龍を処分するんだったら、なんで親方を処分しないのですかねぇ」
客B「処分はされたよ。たしか減給にされたはず」
客C「甘いですよ、減給なんか。理事・広報部長を降格すべきだね」
客A「それも甘いですよ、高砂部屋なんて廃止にすればいいんですよ」
客D「そんなことしたら、朝青龍はどうすんの」
客B「モンゴルに帰ればいい」
店主「それじゃ、相撲協会の思うツボですね」
客A「朝青龍は千代の富士のいる九重部屋に行儀見習いに行く」
客B「いいねぇ。あそこは恐いぞ」
客C「私ならモンゴルに帰るね」
客D「で、高砂親方はどうすんの」
客A「近大相撲部の監督になる」
客D「それじゃ、近大相撲部が可哀想だ」
客B「相撲協会の広報部長だけをやればいい」
客A「どうして」
客B「高砂や〜♪、この浦舟に帆を上げて〜♪」
客C「歌えるあんたはスゴイ」

こうして、飲み屋の会話はとりとめもなく続いていきます。

月曜日, 8月 27, 2007

秋の味覚、サンマをいっぱい食べよう

日本の漁業というのはどうも計画性がない。その昔、乱獲のためにニシンは激減した。そして、ここ数年イワシも激減した。ただ、この理由は乱獲だけでなくクジラにもよる影響も大きい。他にもサバなど20種類以上の魚が資源枯渇の危機にあるという。

ところが、サンマは資源量が豊富なのに、漁獲高は制限されている。現在、サンマは年80万トンの捕獲が可能とされているのに、今年の国が認めた漁獲高は30万トン。業界の大漁貧乏を警戒して、漁獲高を制限しているそうだ。

国が漁獲量を決めるのは乱獲を防ぐためと業界からの要望で、科学的な根拠に基づいていない。だから、サンマは漁獲高を増やして、余った分は養殖用の魚粉などに加工することが可能らしい。サンマを魚粉にするとは、もったいないと思われるが、日本は魚粉を大量に輸入しているので、サンマを加工した魚粉が出回れば、魚粉の価格が下がるということで養殖業者にも好都合のようだ。

サンマ漁は11月末ごろまで続く。今年のサンマは、大型で脂の乗りがいい。私が住む目黒はなにかとサンマと縁が深く、消費量も多いという。私も今月だけですでに数匹は胃袋に収めている。魚粉にすることも大事なことかもしれないが、まずは美味しいサンマを味わうようにしましょう。

日曜日, 8月 26, 2007

28日は皆既月食

月を見るのが好きな私としてはワクワクしています。というのも、28日には6年半ぶりに全国で皆既月食見られるのです。

今回の皆既月食は地平線から昇って来たときには、月はすでに欠けていて18時52分から皆既食になるそうです。そして、20時23分まで続き、その後は月の一部分が欠ける部分食が21時24分まで続くそうです。

とにかく天候が良くなければ見れないのですが、28日の東京の天気予報は曇り。

暑いのあと2日間は我慢するので、なんとか晴れてくれ!

金曜日, 8月 24, 2007

夏はお化け話に限る

暑い夏が続いています。そこで江戸小話にあるお化け話をひとつ。


博打好きの男は来る日も来る日も賭場通いをしていました。その日はすっかり負けがこんでしまい、フンドシひとつの丸裸で長屋に帰ってきました。

「寒くてしょうがねぇ。着るものはないのか?」
「あるわけないじゃないですか! おまえさんがみんな博打ですってしまったんですよ!」

お髪さんは涙ながらに言いました。
ところが、男はお髪さんがきているものを見て、言いました。

「おい、その着物をほどいて、裏と表の二枚にして一枚を俺にくれ」

お髪さんは渋々合わせの着物をほどいて、男に裏地を渡しました。

「おまえさん、もう、博打をやめておくれよ。この寒いときに、一重の着物では、ほんとに死んでしまうよ。死んだら、幽霊に化けて出てやるからね」

お髪さんは恨めしそうに言いました。

それからまもなくして、お髪さんは本当に死んでしまいました。そして、ある日の丑三つ時に化けて出ました。

「うらほしやあー」
「着物の、うらほしやー」

水曜日, 8月 22, 2007

ちょいワルオヤジより普通のオヤジがもてるらしい

『なぜかモテる親父の技術』という本がある。著者は「サンデー毎日」編集長を経て、現在は「週刊金曜日」編集長というバリバリの硬派な人だ。そんな硬派なジャーナリストが、この本のなかではオヤジはチビでも、デブでも、ハゲでもモテると書いているらしい。

と、ここまでは昨晩の飲み屋情報。

私が30代前半の頃、時代はバブルだった。その頃はよく仕事をして、よく遊んだ。若い女の子ともよくデートした。しかし、自分がモテたという気は一度もなかった。あれは時代の流れでしかなかった、と思っている。しかし、50代になってから不思議とモテるような気になっている。一人よがりかもしれないが、そういう気がしてならない。六本木の飲み屋のお姉さんたち、入院した病院の看護婦さんたち、ジムの奥さまたちと、ここのところ綺麗どころからよく声をかけられている。50男を哀れんでいるからかもしれないが、不思議である。

私はチビではなく、ハゲでもないが、少々肥満気味である。そして、男前でもないし見栄えがいい方でもない。もちろんちょいワルでもない。以前は自分から女の子に誘いをかけていたが、今はお誘いの声がよくかかる。

バブルの頃はちょっと洒落たレストランとかで食事をしたが、今はそんなところに行く気もない。普通の居酒屋かすし屋かビヤホールぐらいしか行かない。もう気取るような歳ではない。で、話と言ったら政治からエッチな話までなんでもありだ。たまに女性に聞くことがある。こんなオジサンと話をしていておもしろい?と。

今の時代、どうやら妙に女の子に媚びたり、擦り寄ろうとしている男はモテないようだ。とにかく自然体にしていること、普通でいることが女性にモテる秘訣のようだ。そして、相手の女性の話をよく聞いてあげる、聞き上手になることである。世の中年男性よ、普通であれ。(笑)


と、ここまで昨日、Mixiの日記に書いたら、Mixiをやっているオヤジはもてるという、女性陣からの声がかなり寄せられた。あなたもMixiオヤジになって、女性にモテてみたいと思いませんか。(笑)

月曜日, 8月 20, 2007

高校野球は見ません

プロ野球を見るのが好きです。メジャーリーグを見るのも大好きです。しかし、高校野球はほとんど見ません。昔は見ていましたが、今は全然といっていいほど見ません。理由は簡単です。今日の高校野球(甲子園大会)はスポーツのなかでもっともイビツなイベントになっているからです。

今日の高校野球、つまり甲子園で行われている全国高校野球選手権大会の実態は、端的に言えば「全国私立高校売名野球大会」であり、「大阪出身高校生野球大会」であり、朝日新聞とNHKによる「美談(お涙頂戴話)連発報道大会」でしかないからです。

まず最初の「全国私立高校売名野球大会」とは、出場校の校名を見れば明らかです。私立大学の付属高校、新興宗教関係の高校、進学校へのステップを図る高校、女子高から共学校へのアピールする高校と、出場校のほとんどは純粋に野球を楽しんでいる生徒の学校ではなく、背景に明らかに学校の目論みがある学校ばかりでです。今回の出場校でこうした背景がなさそうな学校は、群馬の前橋商、山梨の甲府商、福井の福井商、三重の宇治山田商、徳島の徳島商、山口の岩国、佐賀の佐賀北、熊本の八代東の8校しかありません。他の出場校はいわやる腹にイチモツどころかニモツをもった学校ばかりです。

次に「大阪出身高校生野球大会」とは、ご存知ように出場校の選手の約2割が大阪出身の高校生で占められています。つまり、甲子園に出場したいがために、地方の高校に「野球留学」しているのです。ひどい学校になるとレギュラー全員が大阪もしくは関西出身者で占められたりしてしまう。そして、彼らの多くは先日問題になった特待生制度で入学しているので、学費や寮費が免除になって、高校生の段階ですでにセミプロ化しているのです。

第三のNHKおよび朝日新聞による「美談(お涙頂戴話)連発報道大会」には辟易します。さすがに今年は特待生制度が問題になったから、選手個人を持ち上げる報道は少なくなりました。しかしながら、NHKは必要もないのに全試合を全国放送したり、朝日新聞は紙面を連日4頁も使って報道するなど、馬鹿まるだし状態です。こんなに報道するならば、なぜ高校野球の暗部を報道できないのか、と言いたい。

高校野球の指導者たちは、プロ野球、大学、用具メーカーなどから援助金という名のワイロをもらっていることは明白であり、また高校も甲子園に行くにあたって、多額の寄付金を募って最終的に潤っている。甲子園応援ツアーで大損をしたという話が今までであったでしょうか。

そもそも高校野球だけが、このように特権的に報道されることがおかしい。夏の甲子園が行なわれている同時期にインターハイが行なわれている。この大会は陸上競技、サッカーなど29競技も行われ、参加者は毎年3万人以上にのぼる。今年は佐賀県で開催されているが、いったいどれだけの人が、そのことを知っているでしょうか。

確かに高校野球は競技人口は多いし人気もある。それゆえに視聴者の興味が高いのも当然だろう。しかし、所詮高校生の大会である。プロではない。高校生スポーツはもっと平等に扱われるべきではないだろうか。このように偏った報道をするNHKおよび朝日新聞などの新聞社はかなり罪深くないでしょうか。

偏った価値観の上にあぐらをかいている高校野球。だから、私は見ません。

日曜日, 8月 19, 2007

日本人があまり行かない観光地 アッシュランド


オレゴン州の南、カリフォルニアとの州境近くにアシュランドという町がある。ここには南オレゴン大学があり、いわゆるカレッジ・タウンである。そして、この町の最大の呼び物は夏に開かれる「シェイクスピア・フェスティバル」である。

シェイクスピア・フェスティバルは1935年に南オレゴン大学の学生たちが6週間限定でスタート。その後毎年規模が大きくなり、現在では本家イギリスのストラットフォードおよびカナダのストラットフォードと並び、世界3大シェイクスピア劇タウンとなり、世界各地から毎年4〜5万の観光客が訪れるという。

公演は2月下旬から10月下旬までの間,3つの劇場で11種類の演劇がほとんど毎日のように行われる。劇場のなかでも最大の見物は、6月から9月に開かれるエリザベス屋外劇場(写真上)の公演。星空の下でのシェイクスピア劇は格別で、私はここで『十二夜』を見たが、後にも先にここで観た『十二夜』以上の『十二夜』はなかった。また、フェスティバルではシェイクスピア劇以外にも、世界各国各民族の演劇・舞踊なども行われたりする。

土曜日, 8月 18, 2007

夏休みのデートスポットは多摩川園のお化け屋敷

多摩川園は東急東横線および目黒線多摩川駅の東側にあった。

多摩川園は1925年(大正14年)12月に開設された東京でも古い遊園地のひとつだった。開業当初は敷地はかなり広く、田園調布駅の線路沿いから多摩川駅まで伸びる広大な遊園地だったようだ。しかし、次第に宅地開発のためにどんどん縮小されていった。

多摩川園は東京オリンピックが開かれた1964年(昭和39年)には年間入場者数100万人を記録して、東横線および目蒲線(現多摩川線)沿いに住む子供たちにとっては、楽しい遊び場だった。園内にはお猿電車、観覧車、樽型のジェットコースター、コーヒーカップなどがあった。そして、なんといってもここの呼び物は夏のお化け屋敷だった。

お化け屋敷には小学生のときは大人と行ったと思うが、中学校に入るとここは絶好のデートスポットになった。当時の中学生にとって、いわゆるグループ交際で出かける場所としては、スケート場とお化け屋敷は定番だったような気がする。私もご多分に漏れず、スケート場へもお化け屋敷へも行ったが、あまりいい思い出は残念ながら作ることはできなかった。(笑)それでも、あのお化け屋敷の中をみんなでワイワイキャーキャー言いながら、遊びまくったことはよく覚えている。

多摩川園は1970年代に入ると入場者が激減して、1979年(昭和54年)6月3日に閉園した。その後は多摩川園ラケットクラブとしてテニスコートになったが、こちらも今から5年前の2002年に閉じられた。現在は大田区が土地を取得し「田園調布せせらぎ公園」となっている。ただ、公園はまだ整備途中という感じで、多摩川寄りの南西部分は写真のようにテニスコート跡地として放置されたままである。

この多摩川園の歴史の変貌によって隣接している駅名も何度か変った。1923年に目蒲線が開設した当時の駅名は「多摩川」だった。それがわずか3年で「丸子多摩川」になり、多摩川園が出来てしばらくたった1931年に「多摩川園前」になった。ところが、1977年にはなぜか「前」が外れて「多摩川園」となった。そして、2000年8月に目蒲線の再編と同時に「園」を取り、開設当初と同じ駅名に帰結した。田園都市線二子玉川駅も多摩川駅と似たような変遷をたどっている。

木曜日, 8月 16, 2007

旧勧銀グラウンドがフランチャイズ


碑文谷公園は2001年4月に、これまでの碑文谷池を中心とした一画だけの公園から、隣接していた「旧第一勧銀グラウンド」の体育館、野球場、テニスコート(6面)などがある一画を合併して、新しい公園としてスタート。旧第一勧銀グラウンド側には体育館などのスポーツ施設以外にポニーに乗馬できるこども動物広場もある。

碑文谷公園は昔から動物が多くいた公園だった。昔はボート乗り場が砂場やブランコのある遊び場(遊具コーナー)に隣接していて、その乗り場の近くにはウサギ、クジャク、小さな猿などを飼う檻があり、子供たちがエサを上げたりすることができた。

その頃から、隣の勧銀グランウド(第一銀行と合併する以前なので)は子供たち、特にワンパク小僧たちにとっては絶好の遊び場だった。特に北東角にある門の前の一角(今は駐車場になっている)は、野球(といってもボールは小さいソフトだった)をやるのに絶好のスペースで、私たちは管理人のおじさんに怒られながらも、よくここで野球をやっていた。

私が子供だった1960年代には、東京といえどもまだあちこちに空地があった。しかしながら、野球をやると隣接する家のガラスを割ったりする危険性があったので、意外に野球をするスペースはあまりなかった。そんななかで、ここは私たちにとってフランチャイズ球場であった。今思うと、よくあんな狭いスペースで野球をやっていたかと思うと不思議に思うが、当時の子供たちにとってそこは天国のような空間に思えた。

そして、私たちが野球をやった一角の奥には、昭和初期に建てられた青い平瓦の2階建てクラブハウスがあった。そして、このクラブハウスを碑文谷公園に合併させるときに、住民の間では存続させようという運動があった。私はこの建物の中に何度も入ったことがあるが、素人目にはどうしても存続させるような建物には思えなかった。それよりも、南西角にあった明治時代の勧銀本店別棟と言われる建物、北東の門の道を隔てたところに建っていた「勧銀倶楽部」の看板があった二つの木造建築は残してほしかった。ただ、共に維持するには相当のお金がかかること、また地震や火災に弱いといったことなどから解体されてしまった。茶室や生け花教室など文化面でうまく使えるような建物だったので残念でならない。

今日、グラウンドでは野球やテニスをプレイする人が、周囲をウォーキングをする人が、芝生の上で子供と遊ぶ人がと、数多くの人が楽しんでいる。その昔、このグラウンドは週末だけ銀行員やその家族で賑わっていたが、平日はいつも閑散していたので、公園となってかなり有意義なスペースとなった。つまり、その昔、私たち子供が野球をすることは、平日の有効利用だったのである。(笑)

写真上:1964年(昭和39年)の野球少年たち
  下:私たちが野球をしていたところ

碑文谷公園
http://www.city.meguro.tokyo.jp/midori/park/detail/himonya.htm

水曜日, 8月 15, 2007

傷痍軍人を知っていますか

今日は8月15日。終戦記念日。それで思い出したのが傷痍軍人。ひと昔前まで街中には傷痍軍人という人がいました。覚えていますか。

今日では第二次世界大戦(太平洋戦争)の傷跡は、心の傷跡を除いて完全に消えました。しかし、昭和40年代前半までは、新宿、渋谷、新橋などの繁華街には傷痍軍人という人が街頭にいました。彼らは白衣をまとい、戦傷した腕や足を露呈しながら、アコーディオンで軍歌を弾き、オモライさん(募金行為)をしていました。

小学生の頃に、私は傷痍軍人のことについて、中国に出兵した経験のある父に聞いたことがある。
「傷痍軍人は全国に何万人もいる。だけど、外で乞食をする者なんてほんの一握りだ。そのなかにはインチキなヤツもいる。戦場で負傷した者でないヤツもいるんだ。戦場で戦ったヤツがあんな乞食をするなんて考えられない」
と、かなり荒々しく答えたことを覚えている。

そもそも傷痍軍人とは何かといえば、国のために戦ってケガをした人のことを言う。彼らは基本的に軍人恩給等で生活保護などはされるものの、それでもその金額は少なく、多くの傷痍軍人はケガの大きさに関係なく仕事をしていた。しかし、なかには前述したように乞食行為をする人も少なくなく、街中に戦争の傷跡を残す結果となってしまった。こうした行為は不正行為だったのだが、警察は哀れんだのかどうかわからないが、取り締まりをしたという話を聞いたことはなかった。

今日では傷痍軍人のこうした光景を見ることは完全になくなった。しかし、街中には「○○○地震被害者支援募金」だとかいって詐欺行為をする者がいる。街頭募金にはくれぐれも注意してもらいたい。とにかく同情心だけで物事を見てしまうのは、相手の思うツボですから気をつけましょう。

戦争の傷跡が何処にも無く、今日が何の日であるかを知らない人が増えた。それはある意味平和でいいことなのかもしれないが、あの戦争で亡くなった人や傷を負った人たちがいたから、いまの自分たちが存在していることだけは知ってもらいたい。

火曜日, 8月 14, 2007

神尾真由子 & 東京交響楽団

一昨日(12日)、ミューザ川崎で開かれている「サマーフェスタカワサキ」の東京交響楽団フィナーレコンサートへ行ってきました。指揮は大友直人。ヴァイオリンは先日のチャイコフスキー国際コンクールで優勝した神尾真由子。

演目(※はアンコール曲)
ベルリオーズ/劇的物語「ファウストの劫罰」より“ハンガリー行進曲”
ドビュッシー/牧神の午後への前奏曲
ペレグリ/クリザリッド
  〜休 憩〜
サン=サーンス/ヴァイオリン協奏曲第3番ロ短調
ラヴェル/バレエ音楽「ダフニスとクロエ」第2組曲
※ビゼー/歌劇「カルメン」前奏曲

演目はすべてフランス人作曲家をフィーチャーしたものばかりで、「おフランスよ」というちょっと気位が高くてお上品な曲のオンパレード。(笑)で、演奏はというと、前半の3曲はすべてが凡庸。とにかく、東京交響楽団の弦がいただけない。私にとってオーケストラの最大の魅力である、弦の厚みや深みが全然伝わってこない。今回の演目はフルートなどの木管をクローズアップしていて、弦が活躍する場は少ない。それにしても、オケを支えるチェロやヴォオラの音色が頼りないのである。前半終了時の客席からの拍手もさほど大きくなく、拍手が止みそうになったので指揮者の大友直人があわてて舞台袖から出てくるぐらいであった。私も正直帰ろうかと思ったぐらいだったが、それでは何のために来たのかわからないので、休憩時にビールを一杯ひっかけて、後半に期待した。

神尾真由子は1986年大阪生まれの21歳。小学校4年生のときに第50回全日本学生音楽コンクール全国大会小学校部門で第1位を獲得。翌年わずか10歳でシャルル・デュトワ指揮のNHK交響楽団と共演してソリスト・デビュー。その後、数多くの国際コンクールに出場すると共に世界各国の有名オーケストラと共演している。使用楽器はサントリーが貸与している1727年製作アントニオ・ストラディヴァリ(ストラディヴァリウス)。

神尾は淡いピンク色のドレスで登場。今回がコンクール終了後初の演奏会。つまり結果的に凱旋公演になった。場内からは演奏前にもかかわらず割れんばかりの拍手。期待のほどが窺える。

第1楽章冒頭、太く低い音がミューザ川崎にサラウンドして響きわたる。う〜ん、楽器が違う。演奏が違う。ただ、コンクール終了後初の演奏会ということもあり、緊張しているせいか音に少しブレがある。それでも彼女の奏でる音色は観客を、そしてオケを完全に凌駕してしまう。やはり世界のコンクールを席巻した音色は違うと感心せざるをえない。

第2楽章。神尾のヴァイオリンは伸びと張りのある音をビシビシと奏でていく。それはノリのきいた着物や浴衣に袖を通したときに感じる、引き締まった気分を味わうかのような心地良さである。彼女は癒しの世界を描くではなく、張りつめた緊張した世界を築いていく。

第3楽章。今度は一転して神尾は大友直人の指揮と呼吸を合わせながら、オケと協調してサン=サーンスの世界を描いていく。見事です。とても21歳のうら若き女性とは思えない。彼女にとってサン=サーンスのヴァイオリン協奏曲を今回は初めてとのこと。それでも、観客とオケを席巻した演奏だった。末恐ろしきヴァオリニストである。

それにしても、日本にはいったいどれだけの女性ヴァイオリニストの名手がいるのだろうか。諏訪内晶子、千住真理子、竹澤恭子、五嶋みどりなどといったキャリア15年以上のベテラン(失礼!)から、川久保賜紀、庄司紗矢香、そして神尾真由子という若手までいる。今や日本は世界に冠たる女性ヴァオリニスト王国になったようである。

さて、昨日最大の拾い物は東京交響楽団の首席フルートの甲藤さち。前半のドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』でもその演奏はひとり際立っていたが、後半のラヴェルの『ダフニスとクロエ』は完全に彼女の独壇場だった。彼女の奏でるフルートの音色は正確無比。加えて女性特有の優しく包容力のあるまろやかなな音色。ちょっとセクシーな音色でもある。この人は間違いなくフリーでも活動していける力量の持ち主なので、ぜひともいろいろなオケと共演してもらいたい。

というわけで、前半で帰らなくて正解の演奏会でした。おかげで、帰りも地元でビールを何杯も飲んでしまった。(笑)

神尾真由子
http://www.aspen.jp/artist/jp/mayuko_kamio.html

日曜日, 8月 12, 2007

日本人があまり行かない観光地 ツームストーン

アリゾナというと、デザート(砂漠)とサボテンというイメージがある。それにぴったりの町がフェニックスPhoenixに次ぐアリゾナ第2の都市、ツーソンTucsonだ。現在は高層ビルも少し立ち並ぶが、それでもスペイン文化を色濃く残した町である。このツーソン周辺には数多くの観光スポットがある。

「オールド・ツーソン」は西部劇のテーマパークだが、もともとは映画『アリゾナ』の撮影用に1939年に建てられたセットだった。「アリゾナ・ソノーラ・デザート・ミュージアム」はその名の通り、砂漠に生息する珍しい動植物を見ることができる。「ピマ航空博物館」は第二次世界大戦の戦闘機から最新のジェット機、ケネディが愛用した大統領専用機など200機近い航空機を見ることができる。「サンザビエル・ミッション」は1788年にインディアン居留地内に建てられた教会で、その優美な景観は観光客にとても人気がある。「コロッサル洞窟」はアメリカ最大級の鍾乳洞であり、ここに大量の金貨を隠したという伝説がいまだに言われている。

ここまではツーソンを訪れた観光客ならば誰もが訪ねるが、ここツーソン近郊にはもう一ヶ所訪ねる価値がある場所がある。それがツームストーンTombstoneだ。ツーソンからフリーウェイに乗って1時間余のところにツームストーンは、現在でも19世紀後半の街並みがそっくり残り、まるで西部劇の世界に迷い込んだかのような雰囲気になる。そして、ここでは毎日有名な「OK牧場の決闘」シーンが街中で上演されている。

ツームストーンは1800年代後半に銀鉱山の町として栄え、最盛期の1880年頃にはツーソンよりも大きく有名な町で、各地から一獲千金を求めた男たちとそれに群がる女たちで栄えた。1881年10月26日、保安官ワイアット・アープ兄弟3人&ドグ・ホリディは、町の外れにあった一時的に馬などを入れておく囲い(牧場という和訳は明らかに誤訳)で、ならず者のクラントン一家と銃撃戦を行い勝利する。この決闘の原因は政治的対立だったり、女性関係のトラブルだったり、闇取引のいざこざだったりと双方の鬱積した結果だったらしい。

アメリカ西部にはこのツームストーンのように、19世紀の町並みが残っているところは数多くあるが、ツームストーンのように木造建物ばかりで、まるで西部劇のセットような町並みの場所は数少ない。そして、そこで実際に起きた出来事を再現してくれているのだから、ちょっと訪れる価値がある場所である。

木曜日, 8月 09, 2007

笹崎ボクシングジムはメモリアルな場所

東横線学芸大学駅近辺でもっとも有名なお店といえば、洋菓子のマッターホーン。もっとも親しまれている場所といえば、碑文谷公園だろう。そして、もっともメモリアルな場所はどこかと言えば、それは笹崎ボクシングジムではないだろうか。

笹崎ジムは戦後の日本ボクシング界をリードした名門ジムであり、ボクシング史上に燦然と輝く歴史がある。ジムの創設は1946年で創設者は笹崎タケシ。笹崎タケシはピストン堀口のライバルとして活躍した昭和初期を代表するボクサー。鋭いストレートに威力があり「槍の笹崎」とも呼ばれ、日本ライト級チャンピオンの座についている。当初ジムは現在地にあったわけでなく、サレジオ教会に隣接した馬舎を修復して開設した。

ジムが現在の目黒区鷹番3丁目に移設したのは1951年5月で、昼はトレーニング場、夜は芝居、ストリップ、浪曲等の興行を催すホールだった。正式名は笹崎ボクシングホールだったが、近隣の人には笹崎座と親しまれた。

私が笹崎ジムを知るようなったのは小学校に入ってからだから1960年以降のことになる。その当時、ジムには1962年に世界フライ級チャンピオンになったファイティング原田が在籍していて、ジムの周りにはいつも黒山の人だかりができていた。

ジムは1964年7月に東横線高架工事のために、一時的に東口商店街から少しへ北へ入ったあたりに一時的に移転した。私は学校帰りに商店街を寄り道しながら、時折ボクシングジムを覗いたりしていた。ファイティング原田はビニール製のヤッケ姿で小学校の近くをロードワークをしていたので、登校時や帰宅時にその姿を見ていた私たちは「シュッ、シュッ、シュー」と口づさみながら、シャドウボクシングの格好を真似したりした。また、この年には後にコメディアン・たこ八郎として有名になった元全日本フライ級チャンピオンの斉藤清作が引退した。私は残念ながら彼が練習している姿の記憶が全くない。

当時のボクシングのチャンピオンというのは英雄だった。というのも、1960年代までボクシングの階級はフライ、バンタム、フェザー、ライト、ウェルター、ミドル、ライトヘビー、ヘビーの8階級しかなく、世界チャンピオンと名乗れる人は世界で8人しかいなかったのである。ところが、現在では階級は17にも分かれていて、世界タイトルを認証する団体は世界ボクシング協会(WBA)、世界ボクシング評議会(WBC)、国際ボクシング連盟(IBF)、世界ボクシング機構(WBO)などがあり世界チャンピオンと名がつくボクサーは世界で70人以上もいるのである。

それゆえに、ファイティング原田は私たちにとっては英雄であり、おそらく大人たちからすれば町の誇りであったに違いない。原田はその後、減量苦から階級をバンタムに上げ、そこでも世界チャンピオンになった。そして、3階級制覇をめざしてフェザーでもボクシングを続けたが、残念ながらベルトを巻くことはできなかった。

1968年12月に現在の目黒区鷹番に5階建ての笹崎ボクシングビルが完成して、現在に至っている。ここからファイティング原田を筆頭に、海津文雄、牛若丸原田、ムサシ中野、ライオン古山などの王者が輩出された。現在は日本フライ級チャンピオンの吉田健司が在籍している。

笹崎ボクシングジム
http://www.sasazakiboxinggym.com/

火曜日, 8月 07, 2007

八月の蝉

客A「今日、蝉の声がうるさくなかった?」
客B「すごかったね。林試の森なんて朝から、ミーンミーンジージーだった」
客C「ジージーはあんたでしょ」
客D「碑文谷公園もジージー、うるさかった」
客B「ジージー、いうな!」
客A「本格的夏に入ったんですよ。これから1週間は暑いですよ」
店主「天気予報も1週間は晴れると言っていた」
客B「じゃあ、今週は夏休みにするか」
客C「あんたはいつも夏休みじゃないですか」
客D「私も夏休みをとって蝉になりたい」
店主「蝉は寿命が一週間しかないよ」
客D「だから、一週間ぐらい休みたいですよ」
客A「五月の蝿はウルサイと読むけど、八月の蝉はなんと読むんでしょうかねえ」
客B「ミーンミーンだろ」
客C「それじゃ、中華そばだ」
客D「やっぱり、八月の蝉はウルサイかアツイじゃないですか」
店主「みなさん、頭がヘタレテいますね」
客D「暑いからですよ」
客B「八月の蝉もウルサイでいいじゃない」
客C「ウルサイのはあんただよ」

飲み屋の会話はとりとめもなく続いていきますが、昨日あれだけ一挙に蝉が出現しましたから、東京はこれから一週間は暑い日が続くでしょう。

月曜日, 8月 06, 2007

ミューザ川崎のNHK交響楽団

一昨日(4日)、ミューザ川崎で開かれている「サマーフェスタカワサキ」のNHK交響楽団の公演に行ってきました。指揮は山下一史。司会進行は黒崎めぐみアナ。客席は満席。

演目
クレンゲル/自作主題による4本のチェロのための変奏曲
(チェロ:村井将、銅銀久弥、山内俊輔、桑田歩)
モーツァルト/ピッコロ四重奏曲イ長調(本来はフルート四重奏曲イ長調K.298)
ダマレ/白つぐみ
(ピッコロ:菅原潤、ヴァイオリン:山田慶一、ヴィオラ:飛澤浩人、チェロ:藤村俊介)
(※以上プレコンサート)

バーンスタイン/キャンディード序曲
ドビュッシー/クラリネットと管弦楽のための第1狂詩曲(クラリネット:横川晴児)
ホルスト/吹奏楽のための第1組曲変ホ長調
R.デューハースト/ブラジリア(トロンボーン:新田幹男)
V.ユーマンス/キャリオカ(チューバ:池田幸広)
バーンスタイン/「ウェスト・サイド・ストーリー」よりシンフォニック・ダンス

最初に結論。プレコンサートが約30分、本演奏とおしゃべりで約1時間30分、これで料金はS席3000円・A席2000円と格安。場所はNHKホールでなく、日本のコンサートホールのなかでも最高の音響を誇るミューザ川崎。そして、演奏はNHK交響楽団。かなり楽しい気分を味わえたコンサートでした。

開演1時間15分前より行われたプレコンサート。曲目は普段はNHKホール北側ロビーで行われている「開演前の室内楽」で演奏されたものと同じ。最初のチェロ四重奏は会場がまだざわついていたせいか、ちょっと集中して聞けなかったが、二つ目のピッコロ四重奏は、北側ロビーで聞いたときの音とは全然違い、めちゃくちゃに素晴らしかった。菅原潤のピッコロはミューザ川崎のホールの3階席まで間違いなく響き渡り、また飛澤浩人の粘りのあるコシの強いヴィオラの音色が耳からお腹にまで伝わってきた。いや〜、このホールは室内楽でも全くノープロブレムなんだなぁ、と実感させられました。

さて、午後3時からは吹奏楽をテーマにした演奏。最初と最後のバーンスタインの曲ではオーケストラは100人以上の大編成。あまり広いとは思えない舞台に黒服姿のメンバーがいっぱいで、こりゃ楽屋は大変だろうなとまず思う。(笑)しかし、演奏の方はまったく手抜きをしません。指揮の山下一史はよほどバーンスタインがお好きなようで、オケばかりでなく余裕綽々で観客まで指揮してしまう。私はNYでバーンスタインが指揮する「ウェスト・サイド・ストーリー」を聴いたことがあるが、それに負けるとも劣らずの素晴らしい演奏だった。ただ、演奏中の「マンボ!」の掛け声はちょっと恥ずかしいのか、優等生的でいただけなかった。

そして、この日のテーマである吹奏楽だが、ソリストのみなさんは誰もが上手いの当たり前だが、なかでも、チューバの池田幸弘が奏でるチューバ独特の柔らかく優しい歌声のような音色は、ホール全体をふんわりと漂い、客席からはおそらくこの日最大の拍手をもらっていた。また、昨年からN響メンバーになった新田幹男のトロンボーンの音色も優美だった。新田は高校2年まではチューバ奏者で、高校3年からトロンボーンに転向したという。山下一史も「高校3年から始めて、いまN響ですか」と言っていたが、この話には吹奏楽をしている中高校生たちは勇気づけられたに違いない。

日曜日, 8月 05, 2007

“隠れヤンキースファン”辞めます

ヤンキースの松井秀喜が7月の月間MVPに選ばれた。日本人選手としては野茂英雄(ドジャース)、伊良部秀輝(ヤンキース)、イチロー(マリナーズ)に続く4人目となった。松井は7月に両リーグ最多となる本塁打13、得点31、長打率にいたっては7割3分5厘と驚異的な数字を記録。打率も3割4分5厘、打点も28と好成績を残した。

さて、私は昔からの“隠れヤンキースファン”である。私が一番好きなチームは、これはまぎれもなくオークランド・アスレチックス(ファンページをもっている)だが、二番目に好きなチームは実はヤンキースである。というのも、ヤンキースには元アスレチックスの選手がこれまでに数多く在籍している。

今日のFA制度を作るきっかけとなったキャットフィッシュ・ハンターやレジー・ジャクソン(共に元アスレチックスの選手)がヤンキースに移籍したことなどから、昔からヤンキースに親しみがあった。また、80年代半ばから90年代半ばにかけて仕事で毎年のようにニューヨークに行っていたので、試合を見にいったり、グッズを買ったりしていた。

日本でも関西には隠れ巨人ファンが多いとよく聞く。関東には隠れ阪神ファンがいるかもしれない。アメリカにも隠れヤンキースファンというのがいるかもしれない。それにしても、この隠れ○○ファンというのは、どうして隠れなければならないのだろうか。それは、羞恥心からくるのだろうか、それとも逆に見栄からくるのだろうか。いずれにしても、どうもこの隠れ○○ファンというのはいただけない。ということで、私は今日からおおっぴらにヤンキースファンと言うようにします。しかし、間違っても巨人ファンにも阪神ファンにもなりません。(笑)

土曜日, 8月 04, 2007

いくら時代の流れでも、アブナイ匂いがする

先日の日記に書いたばかりだが、驚いたことに昨日(3日)東京乗用旅客自動車協会は、加盟する389社のタクシー(約3万4000台)の全面禁煙化を決め、来年1月7日から実施する方針と発表した。いずれ個人タクシー(約1万8000台)のほとんども禁煙化されるであろうから、おそらく都内のタクシーではほとんど喫煙ができなくなりそうである。

それにしても、この決定の早さにはビックリである。どこかの政党が1円の領収書でもめているのと違い、物事の判断能力が非常に早い。当初は禁煙化率は全体の2割にとどめる方針だったので、私も「禁煙を推進するために、東京のタクシーの禁煙車の比率も20%といわず、半分の50%までに引き上げてもらいたい」と書いたのに、いきなり全面禁煙化に踏み切るとは恐れ入った。脱帽ものである。

だが、私はなんでもかんでも禁煙という風潮が少々気になる。いくら時代の流れだからといって、どことなくファシズム的な危ない香りが漂ってくる。愛煙家の人の意見を聞く耳をもたないようでは、恐い世の中がやってくる。やはり、喫煙の自由はどこかで保証されるべきではないだろうか。

金曜日, 8月 03, 2007

世は空前のクラシック音楽ブーム

昨年の「モーツァルト生誕250年」、テレビドラマ『のだめカンタービレ』大ヒットのおかげで、世の中は空前のクラッシック音楽ブームである。そして、お隣の中国でもクラシック音楽がブームになっている。経済成長により富裕層の間で子供にピアノを教える家庭が増えていることが最大の要因らしい。一説には1000万人の子供がピアノ教室に通っているとも言われている。本当か???

このピアノ教室通いブームのきっかけになったのは、2000年の第14回ショパン国際ピアノコンクールで、ユンディ・リ(李云迪)が優勝したことによるところが大きい。彼は中国人初の優勝者であり、当時18歳ということもあって中国社会にセンセーショナルを起こした。

一方、日本でも今年のチャイコフスキー国際コンクールのヴァイオリン部門で神尾真由子が優勝して、クラシック音楽ブームに更に拍車をかけた。この神尾真由子が8月にN響(ジェームズ・ジャッド指揮)と共に四国4県および大阪公演を行うのだが、そのチケットがなんと公演1ヶ月前に、会場が大きい愛媛県を除いてすでに完売してしまったそうだ。こんなことがかつてあっただろうか。

8/23 愛媛県県民文化会館メインホール(キャパ3000人)
8/24 香川県県民ホール(キャパ2000人)
8/26 鳴門市文化会館(キャパ1600人)
8/27 高知県立県民文化ホール(キャパ1500人)
8/28 梅田芸術劇場メインホール(キャパ1900人)

演目:メンデルスゾーン/序曲「フィンガルの洞窟」作品26
   チャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲ニ長調 op.35
   ベートーヴェン/交響曲第7番イ長調

かくいう私も神尾真由子見たさ聴きたさに、8月12日(日)のミューザ川崎での東京交響楽団(大友直人指揮)公演に行く。ミーハーたる面目躍如である。私は常々「芸術はオタクが作り、文化はミーハーが作る」と考えている。今のクラシック音楽ブームが単なるブームでなく、文化として定着するかどうかはミーハーの善し悪しによるのかもしれない。今がミーハーの正念場でもある。

木曜日, 8月 02, 2007

まやかしのような梅雨明け宣言

気象庁は昨日(8月1日)、関東甲信地方が梅雨明けしたとみられると発表した。この発表は1951年の観測史上4番目に遅く、昨年より2日平年より12日遅い。気象庁によると「今年は太平洋高気圧の張り出しが弱く、7月下旬になっても上空を寒気が通過するなど、天候が崩れる日が多かった。ようやく太平洋高気圧の勢力が強まり、関東甲信地方も梅雨明けとなったが、西日本に接近する台風5号の影響で、週末にかけては雲の多い天気になりそうだ」という。

東京の梅雨明けは本当に昨日だったのだろうか。下記の「東京の過去の天気」を見ていただければわかると思うが、7月24日から31日までの間、雨が降った29日を除いて東京は晴れている。また、寒気が入ったのは30日と31日だけで7月下旬で天候が崩れる日が多かったわけではない。つまり、本来ならば「梅雨明け宣言」を24日に行っていればよかったのである。機を逸していただけで、前述の言葉は言い訳にすぎない。当初の気象庁の梅雨明け予想は20日だったから、平年並より少しズレただけであった。となれば、“体内天気予報士”の私の予想はドンビャシャだったのに・・・。ブツブツブツブツ。

東京の過去の天気
http://weather.yahoo.co.jp/weather/jp/past/13/4410.html

水曜日, 8月 01, 2007

タクシーの禁煙車が増えているが・・・。

7月11日から神奈川県を走るタクシー約1万4000台が全面禁煙となった。全県レベルでのタクシーの禁煙は大分県、長野県に次いで3県目だが大都市圏での実施は初めてになる。

一方、東京(23区および武蔵野&三鷹市)を走るタクシー約3万4000台のうち禁煙車はまだ3%しかないという。それを業界では比率を20%までに引き上げ、その後段階的に引き上げるという方針を打ち出している。

先日、下北沢から帰るときに、この禁煙車タクシーに乗ったが、搭乗するなり運転手さんに「禁煙車ですがよろしいですか?」と聞かれた。「私はタバコを吸いませんが、お客さんが乗ったら、いちいち聞かないといけないですか?」と逆に質問してみた。すると、運転手さんからは次のような答えがかえってきた。

「いちいち聞かない運転手さんもいるようですが、私は毎回聞くようにしています。禁煙車とわかって降りられるお客さんが、私の場合一日に3人ぐらいありますよ。今はタバコを吸える場所が少なくなっていますから、わざわざタクシーにに乗って吸う方も多いんです」

東京は夜間を中心にタクシーの長距離利用が多く、タクシーの中で一服したいという人は多いのだろう。このためか、電話でタクシーを呼び出すときに「禁煙車はだめよ」と断りをいれる人もいるとか。こうした喫煙者からの需要が高いために、東京では神奈川県のようになかなか全面禁煙に踏み入れることはできないようだ。

神奈川県タクシー協会は「禁煙は時代の流れ。車内のたばこのにおいに対する苦情が少なくなかった。これを機に利用が増えれば」と期待を寄せているようだ。しかしながら、愛煙家と運転手とのトラブルが起きないかを懸念しているという。

確かに禁煙は時代の流れであり、運転手および他のお客さんへの受動喫煙の防止になる。しかしながら、なんでもかんでも「禁煙」というのはいかがなものかと思う。タクシーは電車やバスと違って「個的」交通機関だと思う。それゆえに、喫煙の自由は保証されるべきではないだろうか。といっても、喫煙は体にいいことではないので、禁煙を推進するために東京のタクシーの禁煙車の比率も20%といわず、50%ぐらいまでに引き上げてもらいたい。