火曜日, 1月 29, 2008

無罪放免されました

昨日、先日まで入院していた大学病院で血液および尿検査を行い、すべての数字が正常に戻っていることが確認され、先生より無罪放免のお言葉をいただきました。

これで、おおっぴらに酒は飲めるし(まあ、すでに飲んでいますが)、ジムも元通りのプログラムやクラスに通うことができるようになりました。めでたし、めでたし。

月曜日, 1月 28, 2008

書きやすい地名と書きにくい地名

小学校のクラス会名簿作成のために、久しぶりに数多くの宛名書きを手書きで行っている。そのおかげで、地名や人名には書きやすい字と書きにくい字があるもんだなぁ、ということを改めて認識した。

私の小学校名である「鷹番」という字は非常に書きづらい。パソコンでは「たかばん」(私はローマ字入力だが)と打って変換するだけだが、「鷹」という字は广を書いて、ふるどりを書いて、また鳥という字を書く。この字はバランスが非常に悪く、書きにくい字の見本のようなものである。小学校の習字のときに、学校名を書くときは誰もが「鷹番小学校」とは書かず「广番小学校」と書いていた。

この話を例の行きつけの飲み屋で話すと、誰もが「鷹番」という地名は素晴らしい名だが、書くのはつらいよ、と言う。そんななかで、その鷹番から品川に引っ越しした人が「目黒という字も面倒だった」という。「それに比べて、品川という字がいかに書きやすいことか」とつけ加えた。

品川という字ほど書きやすい東京の区名はないだろう。この地名はまだ字を書けない子供でも書ける。「丸三つ描いて♪、セン三本♪」である。品という字は別に「口」という字を書かなくても「○」を上に一つ、下に二つ描けばいい。ただ、これが一字だけだと「品」とは読みづらい。しかし、これに縦線を三本引いて「川」という字もどきを描けば、不思議なことに「品川」と読めてしまう。もしかしたら、江戸時代の人はこう書いていたかもしれない。

東京では「北」がもっとも字画が少ない区名だろうが、バランスでは「品川」の
方が書きやすい。一方、最も書きにくい区名は「葛飾」であろう。「豊島」や「練馬」という区名も字画は多いが、「葛飾」という字は難しい上にバランスが悪い。葛飾区にいる人はさぞやこの文字に苦労しているのではないだろうか。

今日では郵便番号が7桁になったので、宛先に都道府県名を書く人は少なくなったが、それでも市町村名を書くのは一般的である。そのために、難しかったり、こみいった地名に住んでいる人は筆無精になりがちかもしれない。しかし、地名には歴史と文化があるので、くれぐれも地名をないがしろにはしないで、しっかりと書いてもらいものである。

金曜日, 1月 25, 2008

アメリカで日本映画を知る

中学・高校時代は年に100本以上の映画を観ていた。私の周りには年300本以上も観るツワモノも何人かいた。誰もが「映画少年」という時代を過してきた。

昔は繁華街には格安な料金で映画を観れる名画座があり、映画少年たちは学校をさぼっては名画座に入り浸り状態だった。名画座がほとんど消えてしまった今日では、若者たちは自宅でDVDかビデオで観て、映画少年という時を過ごしているのだろう。しかし、いくら時代の流れとはいえ、大きなスクリーンを数多くの人たちと共有しながら一喜一憂しながら映画を見るのと、ひとりでカウチボテト族しているのではどことなく味も質も違うようでならない。

さて、そんな映画少年だった私が日本映画全盛期(ちょうど私が生まれた頃)の名作を観たのはアメリカにいるときだった。私は70年代の半ばにカリフォルニアで遊学生活を送っていたが、その頃は当然ながらビデオもなく映画は映画館で観るものであった。アメリカは今日でも映画は映画館で観るという習慣があるお国柄だが、意外にも旧作や名作を上演する映画館は少ない。

そんななかで、カリフォルニア大学本校(私はここの学生ではなかったが)のあるバークレイには、古い外国映画を上映する映画館があり、そこで私は『雨月物語』(溝口健二)『羅生門』(黒沢明)『東京物語』(小津安二郎)などの日本映画の名作を観た。また、大学の授業でもシネマトロジーという授業を半年間受けていたが、そのとき先生に「小津、溝口、黒沢だけが日本映画じゃないぞ、川島雄三や成瀬巳喜男も観ないとダメだぞ」と教えられた。そのおかげもあって、帰国してから『幕末太陽伝』(川島雄三)、『浮雲』(成瀬巳喜男)などを観て、日本映画の奥深さを知ることができた。

私が生まれた1954年(昭和29年)には『七人の侍』(黒沢明)『二十四の瞳』(木下恵介)『ゴジラ』(本多猪四郎)といった後の映画界に多大な影響を与えた名作が生まれた。そして、日本映画は1958年(昭和33年)に観客動員数が11億3千万人(当時の人口は9千万人余)と黄金期を迎えた。

上記の文中に挙げた映画はどれもが絶対に一見の価値のある作品ばかりである。

参考までに1999年のキネマ旬報「オールタイムベスト・ベスト100」日本映画編は下記の通りである。

1位『七人の侍』(黒澤明)
2位『浮雲』(成瀬巳喜男)
3位『飢餓海峡』(内田吐夢)
3位『東京物語』(小津安二郎)
5位『幕末太陽伝』(川島雄三)
5位『羅生門』(黒澤明)
7位『赤い殺意』(今村昌平)
8位『仁義なき戦い』(深作欣二)
8位『二十四の瞳』(木下恵介)
10位『雨月物語』(溝口健二)

水曜日, 1月 23, 2008

小学校のクラス会の幹事はつらいよ、の巻

昨年は高校のクラス会の幹事をやらされたが、今年は小学校のクラス会の幹事を押し付けられた。私は目黒区の鷹番小学校というところを41年前に卒業している。その後、目黒八中へ進んだが、鷹番小学校から目黒八中へ行ったのは私を含めて4人しかいなかった。私立へ進学した者を除いては、そのほとんどが目黒六中へと進んでいる。であるから、目黒六中へ行った者の方が幹事をするのが常道だと思うのだが、なぜか私のところにお鉢が回ってきてしまった。

さて、41年前の人間の消息を探すということは大変である。

まず最初に今でも付合いのある小学校時代の友人を片っ端からあたって、連絡先を確認する。ここまでで、クラスの半分の20人はなんとか探しだすことができた。しかし、この先が苦難の道のりである。卒業アルバムに載っていた40年前の家に電話をしたり、手紙を送ったりする。これで女性陣5人が判明した。ところが、男性陣はほとんど反応をしめさない。そこで、ネットを駆使して、いくつかの手がかりを元に、なんとか2人を探しあてた。その後何人か連絡がつき残りは9人である。正直手がかりがなくどん詰まり状態である。

クラス会というのはいつなんどき開かれるかわからないものである。クラス会など絶対に参加しないとう人は別にして、クラスメイト2〜3人には連絡先を必ず伝えておくようにするべきである。特に小学校のクラスメイトは忘れずにしてほしいものである。

ということで、1967年(昭和42年)目黒区立鷹番小学校卒業6年2組(担任:本藤先生)の下記のクラスメイトを御存じの方は私まで御一報ください。

秋元久叔、白井康之、原田隆明、茂木直登、戸田信子、渡辺扶蓉

月曜日, 1月 21, 2008

大河ドラマで俄然注目の人、小松帯刀

NHK大河ドラマ『篤姫』の重要な役どころで瑛太が演じている肝付尚五郎。後の小松帯刀(たてわき)はこれまで大河ドラマをはじめとした歴史ドラマで全く描かれることがなかった。同様に時代小説でも詳しく描かれているものはほとんどない。

私の描いていた小松帯刀像といえば、薩摩藩の家老にして島津斉彬および久光の懐刀というぐらいの認識しかなかった。それが今回の『篤姫』で俄然クローズアップされたので、同姓というよしみあって、その存在をちょっとネットで調べてみた。するとどうだろう、驚いたことにこの小松帯刀という人物は坂本龍馬と並ぶぐらい、ドエリャー明治維新の立役者ではないか。新鮮な驚きであった。

小松帯刀は1835年(天保6年)薩摩藩喜入領主・肝付兼善の三男として生まれる。幼少時代の名を尚五郎といった。

1856年(安政3年)、指宿郡吉利領主・小松清猷が琉球出張中に急病で亡くなったために、藩主島津斉彬の勧めによりあり、尚五郎が急遽清猷の妹お近と結婚、婿養子となって小松家の家督を継承した。そして、翌年小松帯刀清兼と改名する。

当主になった帯刀は領内改革に取り組み、その手腕を発揮する。その一方で、吹上浜の雑木林での兎狩りや、若者たちによる相撲などを催しては、無礼講にて家臣および領民の意見などを聞き入れるなど、またたく間に「小松家の名君」として藩内では知らないもの者はいない存在になった。

1861年(文久元年)、帯刀は長崎に赴き、電気・水雷の研修を受け、帰藩後、磯の藩邸で実演を行っている。また、この年薩摩藩主となっていた島津久光に手腕力量を認められ、側近となり薩摩藩の藩政改革に取り組みはじめ、琉球や清国の貿易、また他藩と交易することで藩の財政を敢行した。そして、その資金を利用して教育、軍事整備を行い、薩摩藩の活性化と近代化に貢献した。

1862年(文久2年)、帯刀は27歳の若さで家老職に就任する。また、帯刀は大久保利通に請われて下級藩士の勤皇グループ・誠忠組の指導者にもなる。

1864年(元治元年)、7月の蛤御門の変では、帯刀は西郷隆盛らとともに薩摩軍を指揮して御所を防衛した。

この頃より帯刀は藩主・久光の意向を汲んで、京都において公武合体及び幕政改革を推進し、朝廷や幕府、諸藩との連絡・交渉役を務め、薩摩藩の指導的立場を確立した。そして、坂本龍馬らと懇意になり、薩長同盟樹立のために藩論をまとめるべく奔走した。

1866年(慶応2年)、京都二本松薩摩藩邸において、坂本龍馬を間に入れて帯刀と西郷隆盛の薩摩藩と木戸孝允の長州藩が会談。全六箇条からなる盟約が成立した。その内容は幕府による長州征伐に備えた攻守同盟で、幕府の出方次第では薩摩藩の京都で軍事行動も含まれていた。また翌年には薩摩藩と土佐藩の盟約である薩土同盟を成立させ、京都で帯刀はその外交手腕をいかんなく発揮した。

1867年(慶応4年)11月、徳川慶喜が二条城にて大政奉還を発したとき、帯刀は久光の名代つまり薩摩藩の代表として参上している。しかし、この頃より帯刀には痛風もしく糖尿病と思われる病魔が忍び寄せていた。

1868年(明治元年)、明治新政府の発足にあたり、帯刀は参与職と総裁局顧問、外交事務掛などの要職を歴任した。大久保利通らと版籍奉還を画策し、藩政改革案を作成する。しかし、翌年には病気のためにすべての職を辞して、療養に専念するものの、1870年(明治3年)7月20日大坂で病死した。享年36歳だった。

小松帯刀は西郷隆盛や大久保利通より年少になるが、下級武士に過ぎなかった西郷や大久保、そして脱藩者である龍馬などが活躍できたのも、2600 石の家老であった帯刀の庇護によるものが大きかった。また、その人柄は明快にして寛容であり、誰からも人望が厚かった。なかでも坂本龍馬による帯刀の評価は高く、新政府の人事構想が話題になったとき、坂本龍馬は西郷、大久保、桂などを抑えて、帯刀を筆頭に推薦していた。また「パークス伝」には「小松帯刀は非常に知恵があり、応対の見事な人であった」といい、大隈重信は「容貌、風采とも立派で、気品があり、薩摩人には珍しい雄弁家で、寛仁大度の人だった」と語っている。

このように帯刀に対する評価は非常に高く、もし帯刀が長生きしていれば、明治政府の中核の一人として、三条実美や岩倉具視といった公家とは一線を画して、大久保らと共に辣腕を振るっていたに違いないだろう。36歳の若さで亡くなったのがつくづく惜しまれる人物である。そして、同様に坂本龍馬のことについて書かれている本が幾十冊もあるのに、小松帯刀のことについて書かれている本がほとんどないのが不思議でならない。

土曜日, 1月 19, 2008

3日前に退院しました

16日水曜日の午後に無事退院しました。

今はもう完全にピンピンしています。たった6日間の入院でしたが、今回は一昨年の怪我の入院と違って、非常に退屈しました。なによりも酒が飲めなかったのが一番つらかったです。

月曜日, 1月 14, 2008

ちょっと入院中

先週の水曜日に発熱してしまい、熱がなかなか下がらないために、金曜日に大学病院で精密検査をうけたところ、即日入院となりました。入院後すぐに点滴をうけ、座薬を入れられると、37度台後半だった熱があっという間に36度台前半に落ちました。あら不思議という感じでした。

現在は体調もだいぶよくなり、部屋においてあるパソコンで遊べるまでに回復しました。あと、2、3日で退院できるかと思います。それにしても、病院は退屈です。一昨年怪我で入院したときは、精神的にはピンピンしていたので、苦になりませんでしたが、やはり病気となるとあまり気分のいいものではありません。一刻もはやく脱出したいです。

火曜日, 1月 08, 2008

げに恐ろしき暗記世代

昨日は1月7日。七草粥を食べる日でしたが・・・。

店主「みなさん、今日は七草粥もどきのメニューもありますよ」
客A「七草って言えないんですよ。セリ、ナズナ・・・」
客B「ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ」
客A「大根はなんですか」
客B「スズシロが大根で、スズナが蕪」
客C「セリは芹、ナズナはペンペン草、ゴギョウは母子草・・・」
客D「ハコベラはハコベ、ホトケノザはコオニタビラコ」
客A「秋の七草は?」
客B「ハギ、オバナ、クズ、オミナエシ、フジバカマ、キキョウ、ナデシコ」
客E「さすが、年の功ですね」
客A「暗記世代なんだよ。祇園精舎も言えるでしょう?」
客B「祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」
客C「娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」
客B「おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし」
客C「たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ」
客E「ヒェ〜、恐るべし団塊の世代」
客D「昔は教育勅語や軍人勅語も覚えさせられたんだよ」
客A「私もこんなの知っていますよ」
客C「ほう、何を」
客A「神武、綏靖、安寧、懿?、孝昭、孝安、孝靈 、孝元、開化、崇神」
客D「垂仁、景行、成務、仲哀、應神、仁?。仁徳まで言えないとダメだよ」
客E「ヒェ〜、恐るべし大正生まれ」

土曜日, 1月 05, 2008

2007年飲んだ美味しい日本酒

以前も書きましたが、日本酒の巻き返しブームに便乗しています。そのためか、昨年は数多くの日本酒を飲んだが、そのなかから印象に残っている酒を忘備録として書き留めておきます。今年も新たなる美味しい日本酒と出会いたいと思います。

作田 (青森県七部町・盛田庄兵衛酒造店)
http://www.morishou.co.jp/
※青森のお寿司屋さんで飲んだお酒。魚料理にはぴったりのお酒。

磯自慢 (静岡県焼津市・磯自慢酒造)
http://www.at-s.com/html/gourmet/kuramoto/kuramoto17.html
※はじめの一口はフルーティだが、そのあとに日本酒の醍醐味がじわりと伝わってくる本格派。

手取川 (石川県白山市・吉田酒造)
http://www.tedorigawa.com/
※行きつけの飲み屋の常連(某大学教授)からいただいたお酒。端麗系の美味しいお酒。

播州50 (富山県黒部市・銀盤酒造)
http://www.ginban.co.jp/
※兵庫県三田市の山田錦を使っているので播州50という名がついている。

三笑楽 (富山県南砺市・三笑楽酒造)
http://www.sansyouraku.jp/
※その昔、高校生のときに五箇山で飲んだ地酒。久しぶりに飲んだがめちゃくちゃ美酒。

古都 (京都府京都市・佐々木酒造)
http://jurakudai.com/web/index.html
※ごぞんじ佐々木蔵之介の実家のお酒。寿司屋でみんなで飲んだたら、あっという間になくなった。

宝寿 (広島県竹原市・藤井酒造)
http://www.wakuwaku.ne.jp/~fujiishuzo/
※騙されたと思って一度飲んでみてください。日本酒の域を越えたすごいお酒。

金曜日, 1月 04, 2008

収集癖のない私の唯一のコレクション

私には収集癖というのがほとんどない。多くの子供は子供の頃に切手のコレクションをしたり、車や電車のミニチュア、怪獣消しゴムなどを買い集めたりする。しかしながら、私にはこうしたことが全く無縁だった。

そんな私でも唯一のコレクションというのが一つだけある。それは3Dポップアートの第一人者として有名なチャールズ・ファジーノの版画である。といっても、作品は4点しかもっていないが。

チャールズ・ファジーノは1955年ニューヨーク生まれのポップアーティストで、ニューヨークをはじめ街を題材にした色鮮やかな3Dアート(立体画)を描く人である。私が彼の作品に初めて出会ったのはおそらく1985年頃だと思うが、当時は絵画を買うお金の余裕はなく、最初の1枚を買ったのはそれから3年後ぐらいだったと思う。

その後1995年ぐらいまでに3点ほど買ったが、当時は1点の値段は200ドル前後だった。しかし、人気がでた現在はおそらく1000ドル前後はするに違いない。そして、日本で買うとなるとその倍以上になってしまうだろう。

いつかまた彼の作品を買いたいと思っているが、なかなか買うことはできない。やはり私には収集癖はないようである。

チャールズ・ファジーノ公式HP
http://www.fazzino.com/

日本代理店のHP
http://www.fazzino.jp/activity.html

火曜日, 1月 01, 2008

2007年私的10大ニュース

明けましておめでとうございます。

1.年間35回以上のコンサートに行く(2月〜)
2.13年連続のメジャーリーグ観戦(5月)
3.株を始めてはや4年、最高の配当を得る(6月・12月)
4.左肩鍵盤損傷手術より1年、ほぼ完治する(11月)
5.高校のクラス会の幹事をを務める(7月)
6.飲み屋の常連客10数人と温泉旅行で幹事を務める(6月)
7.N響(Bプロ)の年間会員になる(9月)
8.日本酒の巻き返しブームにのる(1月〜)
9.ブログおよびMixiが1周年を迎える(9月)
10.スポーツジム5年目に突入(9月)

1位はコンサート回数です。一昨年は怪我と入院であまり行けませんでしたが、07年は十二分にその分も取り返しました。(笑)ただ、困ったことにこの勢いが止まりそうもなく、この調子でいくと、来年は50を越えそうです。

2位は07年も行ってしまいましたメジャー観戦。今回はオークランドでテールゲート・パーティにも参加しました。来年はオークランドへ行くかニューヨークへ行くか未定ですが、メジャー観戦は続くでしょう。

3位は株の配当です。毎年、配当は上がっていますが、銀行ではこんな利息はとてもとてもつきません。ただし、売買による譲渡益はこの3年で最低だった。

4位は怪我の完治です。先日、手術後1年のMRI検査を受けましたが、左肩に異常は全く見られませんでした。先生に無罪放免のお言葉をいただきました。

5位と6位は共に幹事です。もう幹事慣れになりました。今年は小学校のクラス会の幹事です。7位はN響の年間会員になったことです。シーズン会員はこれまでにも2度ほどなったことはありましたが、年間会員は初めてです。

8位は日本酒です。いずれ書きますが、今年は数多くの美味しい日本酒と出会うことができました。焼酎に飽きたわけではありませんが、日本酒ならではの味わいにちょっとハマリつつあります。来年も続きそうです。

9位と10位は継続です。飽きっぽい性格の私としてはよく続いていると我ながら感心しています。ひとえに支えてくれる皆さまのおかげです。来年もよろしくお願い申し上げます。

昨年は個人的には割りといい年でしたが、今年もそれが継続されるだろうか・・・。