日曜日, 2月 27, 2011

今年の夏も暑いのか!?

気象庁が先日(24日)が春から夏にかけての暖候期予報を発表した。

それによると、春の気温は平年並みか高めの見込み。夏は昨年ほどの猛暑にはならないが、それでも平年より高めとのこと。梅雨の降水量は全国的に平年並みと予想。

なお、読売新聞によると、3〜5月にかけての予報は下記の通り。
【3月】太平洋側は平年同様に晴れの日が多い。北日本の日本海側は平年同様に曇りや雨、雪の日が多い。沖縄・奄美は平年に比べ晴れの日が多い。
【4月】東・西日本は平年に比べ晴れの日が多い。
【5月】東・西日本は平年同様に晴れの日が多い。沖縄・奄美はぐずつく時期がある。

つまり、3〜5月は平年より晴天の日が多そうということである。この予報は当たって欲しいものである。一方で、夏は平年並みの暑さになってもらいたい。

木曜日, 2月 24, 2011

整いました〜、桜の開花予想

気象情報会社3社の桜の開花予想が出揃った。つまり「整いました〜」である。(笑)

そこでなぞかけです。

「桜の開花予想」とかけませして、

「就職の内定通知書」と解きます。

その心は

どちらも「あてになりません」。

昨年から気象庁が開花予想を撤退してしまったので、現在、あてにならない予想をしているのは民間の日本気象協会、ウェザーニューズ、ウェザーマップの3社だけ。

しかし、この3社にしても昨年の的中率は、気象協会が48か所中7か所で的中率は14%。ニューズ社は22%(北海道と東北、北陸を除く)、マップ社は19%とイチローの打率には遠くおよばない。こんなだったら、予想などしなければいいものの、と思うが、観光業界、食品業界などからの要望は高いみたいである。人はお墨付きというのを欲しがっているようで、それを頼りにしてしまうのである。

で、各社の開花予想であるが、どこも平年並か平年より数日早くなるという予想のようである。ちなみに、東京の開花予想は日本気象協会が3月21日、ウェザーニューズが3月22日〜30日、ウェザーマップ3月21日となっている。

いずれにしろ、あてにはしていません。w

火曜日, 2月 22, 2011

世論調査にオブジェクション!

マスコミ各社の世論調査によると、菅内閣の支持率がほとんどで20%を下回り、いわゆる“危険水域”に突入したという。ところで、この世論調査の数字というのは本当に信用できるのだろうか。おかしくはないだろうか。

いつ頃から新聞やテレビが世論調査を行うようになったのか解らないが、昔は今のように月に1回などという頻繁に行っていなかったと思う。Wikipediaの「内閣支持率」という項目を見ると、新聞各社が内閣発足時に支持率調査を行うようになったのは細川内閣以降のようである。そして、これ以降に新聞各社およびテレビ局は頻繁に世論調査を始めるようになったであろう。

こうした世論調査の動向もあってかどうかは解らないが、細川内閣以降の内閣は小泉内閣を除いてはいずれも短命に終わっている。どうもマスコミがこの世論調査という数字を使って、マスコミによる政権批判の正当性を利用しているのにすぎないのではないだろうか。そして、世論調査が世論調査を後押して、どんどん内閣支持率の数字を下げているような気がしてならない。つまりマスコミ操作が行われているような気がしてならない。

世論調査でもっとも注意しなければならないのは回答率である。最近の世論調査は調査内容を報道しないところもある。これは明らかにおかしい。そもそも回答率が6割以下の調査に関しては、信じていいのかとさえ思う。また、1,000人程度の調査でそれが正確な数字を表しているかというと、これも少し疑問を呈さざるをえない。統計学のことを詳しく知らないが、日本のように1億2,500万以上の人が暮らしている国の場合、本来は最低でも10,000人以上の調査が必要ではないだろうか。

現在、私の家には2台の固定電話と2台の携帯電話があるが、マスコミから世論調査の依頼の電話は一度もない。あなたの家にはマスコミから世論調査の電話がかかってきたことがありますか。

中東や北アフリカのような長期政権の国もダメだが、日本のような短期政権の国もダメである。その短期政権に追いやっているのはマスコミであり、世論調査はその道具としてうまく使われているようにしか思えない。

日曜日, 2月 20, 2011

「くもじい」&「くもみ」

毎週木曜夜にテレビ東京が放送している『空から日本を見てみよう!』が面白い。この番組はヘリコプターによる空撮映像を使い、日本各地の名所旧跡、変わった建物などを空と陸から紹介している。

番組のなかには「屋上ハウス」「測れ!トンガリ計測部」「公園アニマルズ」「もじゃハウス」「空からアイツを探してみよう」などといったコーナーが唐突に登場する。最近は「人文字でくもじぃ」と新たなコーナーも誕生している。

番組を面白くしている最大の要因はなんといっても、ナレーションを担当している「くもじい(伊武雅刀)」と「くもみ(柳原可奈子)」の二人(二雲?)だろう。くもじぃの「くもじいじゃ!」「なんじゃ、こりゃ!」「ええのぉ〜」といった旧態依然とした喋り方は可笑しく、それをフォローするくもみとの掛け合いは絶妙だ。

ただ、この『空から日本を見てみよう!』はテレビ東京制作ということもあってか、全国放送の割には多分に『空から“関東地方”を見てみよう!』になっている。これまでに「京都」「阪神工業地帯」「北九州工業地帯」などを放送しているが、関東地方の比率があまりにも高すぎる。しかしながら、視聴率を10%近くを取っている番組だから、今後は関東地方以外の場所をもっと紹介していくに違いない、と期待している。

木曜日, 2月 17, 2011

「尾道焼き」を食べてみた

朝ドラの『てっぱん』はあまりまじめに観ていないが、それでもこの番組で「尾道焼き」なるお好み焼きを知った。私は東京人なので普段お好み焼きを食べることがない。もちろん、家でお好み焼きを作るなどということもしない。関西(大阪?)には一家に一台お好み焼き用のプレートやたこ焼き機があるらしい。最近は全自動たこ焼き機なるも登場したらしいが、私はそのような機械を見たことすらない。

話が少しズレてしまった。たこ焼きでなく尾道焼きである。最近近所のスーパーで、この尾道焼きが売られるようになったので、何気に買って食べてみた。そしたら、これがなかなかの美味なのだ。これまでのお好み焼きの概念を変えてしまうほどだった。お好み焼きというと、お店にもよるだろうが妙にベタベタしている上、ソースも濃い感じがして、正直これまでかなり敬遠していた。

それに対して尾道焼きは小麦粉の量が少なめなのか、ベタベタ感はなくどちらかといえばサクサク感がある。尾道焼き特有の砂ずり(砂肝)も意外にマッチするのに驚いた。また、ソースも濃くもなく甘くもない。その昔、高田馬場に仕事場があったときに、近くの広島風お好み焼きに何度か行ったことはあるが、あの味よりも十二分にイケた。

いつか本場の尾道焼きを食べてみたいが、その昔、尾道に行ったときには尾道焼きなんてなかったような気がするのだが・・・。

火曜日, 2月 15, 2011

積雪2センチが静かな夜を作る

たかが積雪2センチで大騒ぎする東京。雪国の方々からしてみればお笑いごとだろうが、それにしても昨夜の東京(自宅近辺)は静かだった。

東京は雪が降り始めると途端に車の通行量が激減する。スノータイヤはもっていないし、チェーンを付けるのは面倒だから当然のことであろう。自家用車や営業車の走行は少なくなり、夜が稼ぎ時のタクシーも台数が減っていく。また、冬は騒音がひどいバイクも全く走らなくなる。

こうして、たった2センチの積雪のおかげで東京には静かな夜が訪れる。そのおかげで、昨夜は外の音にまったく紛らわされず静かに本を読むことができた。

こんなことを書くと顰蹙を買うかもしれないが、昨夜のように夕方から降り始めて明け方までに止んでくれる雪は歓迎である。そして、その積雪が2〜3センチの雪ならば、朝の雪かきも苦にはならない。我ながら都会人とは身勝手な者だと思う。

月曜日, 2月 14, 2011

もう自分で作るしかないのか

馴染みの地元(学芸大学駅周辺)の飲み屋が今月いっぱいで閉店する。この3年間で行きつけの飲み屋がなんとも3軒も店を閉じる。まるで私が疫病神のようであるが、現実は決してそうではない。

2008年2月に閉店した居酒屋は10年以上も営業を行い、私はその2年目から常連となり、そのお店で知人たちと何度も忘年会などを行った。ただ、そこは店主が高齢化したことや常連客が相次いで引っ越ししたことなどから売り上げが落ちてしまい、お店は3年前に定食屋に切り替えてしまった。それも結局は長続きはしなかったが・・・。

昨年夏に閉店したお店は4年前に出来たお店で、青森から送られてくる食材が美味しく、かなり贔屓にしたが、店主夫婦のゴタゴタなどがあったりして、結局は賃貸契約期間の3年であっさりと閉鎖してしまった。

そして、今度のお店である。このお店の常連になって約3年だが、いつも美味しい魚料理や鳥料理を食べさせてくれて、お店はそれなりに繁盛していた。しかしながら、店主ら2人だけで切り盛りするには店舗が少し広すぎるために、結局開店7年にして店を閉じることにしたようである。

学芸大学駅周辺には数多くの飲食店があるが、総じてそのテナント料は高いといわれる。そのために、お店は出来ては潰れ、出来ては潰れの繰り返しで、1年もてばいいとか、3年もてばいいとか言われたりするようになってしまった。本当に入れ替わりが激しい地域である。こんなことではなかなかお客さんも定着しなくなるので、家主や不動産屋はもう少し賃料も考慮すべきであろう。

ということで、私はまた美味しい魚料理を出してくれる飲み屋を探さなくてはいけなくなった。これが結構大変なのである。こうなると、自分でお店を作った方が早いかもしれない、という気になってしまう。

金曜日, 2月 11, 2011

安易に関西弁を使う関東人

昨日、2月10日付日刊スポーツ紙に「“東京弁”ってそんなにつまらない?」というコラム(梅田恵子記者)が載っていた。

その内容はテレビや日常生活のなかで関東人が安易に関西弁を使うことに対する苦言である。今日の関西人はテレビなどの影響で幼いことろより標準語と関西弁を使い分けられるが、関東人が関西弁の母音や子音の違いなど解らずに使うのは不自然だと述べている。と同時に、テレビの影響力の怖さを指摘している。

同感である。言葉は生き物であるが、関東人が関西弁を安易に使うことに私は抵抗を感じる。関東弁の良さをどうして理解できないのだろうか。記事のなかにもあるが、なんで関東人が「カミさん」のことを「嫁」と言ったり、「母親」のことを「おかん」と呼ぶ必要性があるのだろうか。

関西弁には1000年以上の歴史がある。同じように関東弁にも400年以上の歴史が培われてきている。そうした歴史認識もなく関東人が安易に関西弁を使うのは関西人に対して失礼でもある。

木曜日, 2月 10, 2011

ミーハーの語源とは

私はミーハーという言葉をよく使う。自分の音楽関係のブログのタイトルにも使っている。

ミーハーの語源には諸説ある。しかし、一般的にはミーとは「みよちゃん」、ハーとは「はなちゃん」のことで、昭和初期に流行を先取りしようとする女性たちの別称もしくは蔑称として「みいちゃんはあちゃん」と呼ぶようになったことに由来する。そして、この「みいちゃんはあちゃん」がいつしか簡略化されて「ミーハー」となった、というのが真相だろう。というのも、その昔私の祖母(明治生まれ)も「みいちゃんはあちゃんがね」とよく言っていた。

それが、戦後になると女性を軽蔑する意味合いは薄れていき、サブカルチャーに熱中する人たち全体を「ミーハー」と呼ぶようになっていった。その後、昭和30年頃にはミーハーより少し趣味が高尚な人たちを指す意味で「ソーラー族」なる言葉も生まれたが、少し言葉の由来に無理があったようで定着することなく消えていった。ソーラーとは音階の「ミ・ファ」より上の「ソ・ラ」から来ている。

そして今日では、ミーハーという言葉は「オタク」という言葉に取って代わられ、半ば死語になりつつあるが、それでも私のようにまだまだ固執して使う人は少なくない。

なお、英語のミー(Me)とハー(Her)を語源とする説もあるようだが、これは明らかに違う。

火曜日, 2月 08, 2011

屋台文化が消えて行く・・・

以前、目黒通りの歩道には夜な夜なラーメンやおでんなどの移動式屋台が出没した。ところが、この何年かはまったく見かけない。これは目黒通りに限ったことでなく、渋谷駅や恵比寿駅周辺にあった屋台も見かけなくなり、ひょっとすると東京の町からほとんどの屋台が消えてしまったのではないだろうか。

もともと屋台とは店先に出窓のようにして作った部分を表す言葉だったようだが、それがいつしかその出窓というか軒先が独り歩きして、江戸時代の半ばごろより、担ぎ蕎麦や立ち売り寿司などが登場するようなった。これらは今のファーストフードにあたり、江戸庶民の人気を得ることになった。

そして、時代はかなり飛ぶが戦後の闇市のなかから焼き鳥などの新しい屋台も登場して、その流れからラーメンの屋台も登場した。しかしながら、食品衛生法、道路交通法などの法律で屋台の取締が厳しくなり、1964年の東京オリンピックのときに所管官庁は徹底的に排除に乗り出したようである。それでも、屋台は平成の時代まで残っていた・・・。

でも、もうその姿を見かけることはなくなってしまった。おそらく営業許可というか認可が下りないのだろう。衛生上の問題もあるだろうが、道路占拠や夜間騒音などの苦情によるも多いらしい。東南アジアでごく一般的な屋台が日本からなくなるのは寂しい限りである。もはや屋台は「明星チャルメラ」のパッケージだけの世界になってしまったのだろうか。

金曜日, 2月 04, 2011

時代が「八百長」の証拠を残してしまった

そもそも「八百長」という言葉は大相撲と深い関わりがある。

明治時代、八百屋の「八百長(やおちょう)」の長兵衛さんと大相撲の年寄・伊勢ノ海五太夫は囲碁仲間だった。囲碁の実力では本当は長兵衛さんの方が上回っていたが、店の商品を買ってもらうために、わざと負けたりして伊勢ノ海の御機嫌をとっていたりした。しかし、相撲が行われていた回向院近くの碁会所開きに来賓として来た本因坊秀元と互角の戦いをしたために、長兵衛の実力が知れわたるようになった。このことから、事前に示しあせて勝負の決着をつけるインチキ行為のことを「八百長」と呼ぶようになった。

この八百長相撲はおそらく江戸時代から行われていた。ただし、江戸時代から明治中期頃までは力士のほとんどは文盲であったことから、八百長のやりとりはすべて口頭(本人もしくは付け人などを介して)で行われていたために、証拠というものうは一切残らなかった。

明治中期以降、力士のほとんどが読み書きができるようなってからは、口頭だけでなくメモ書きも使われるようになっただろう。しかし、こうしたメモ書きは部屋にある火鉢などによってすぐに燃やされていたから、この時代も証拠が残ることはなかっただろう。

そして、時代は昭和30年代に入り、大相撲は年6場所、十両以上は月給制となった。そして、世間一般に電話が普及した。ここからはおそらく電話でのやりとりが主体であっただろう。もちろん、部屋に電話がかかってくるのだから、親方をはじめ誰もがその内容を知っていたに違いない。しかし、証拠が残ることはなかった。ところが、数年前ぐらいからはメールでもやりとりするようになっただろう。そして、ついに証拠が残ってしまった。

なお、現在名前の浮かび上がっている力士たち(下記 ↓)は一人を除いて日本人ばかりで、彼らは「過去にはない」と言われる「八百長」の伝統をしっかり継承していただけなのである。ただし、証拠を残してしまった。

春日錦   千葉県いすみ市
(竹縄親方)
清瀬海   愛知県名古屋市
恵那司   岐阜県恵那市
海鵬    青森県西津軽郡深浦町
(現谷川親方)
霜鳳    新潟県新井市
光龍    モンゴル・ウランバートル市
豊桜    広島県広島市
旭南海   鹿児島県大島郡天城町
若天狼   北海道根室市
白乃波   熊本県宇土市
山本山   埼玉県さいたま市
千代白鵬  熊本県山鹿市
霧の若   熊本県阿蘇郡長陽村

水曜日, 2月 02, 2011

心の奥深く刻まれたアジアカップ優勝

日本サッカーは強くなった。本当に成長した。今回のアジアカップの優勝で日本中の誰もがそう思ったに違いない。そして、私にとっては今回の優勝は昨年のワールドカップでカメルーン、デンマークを撃破した以上に心奥深く刻まれた。

古い話で恐縮だが、1968年のメキシコ・オリンピックで日本代表は銅メダルを獲得した。後にも先にもサッカーでメダルを獲得したのはこのときだけである。ただ、この時代のオリンピックはプロ選手の出場は許されておらず、この大会の決勝戦もハンガリー対ブルガリアという共産圏国同士の戦いで、ハンガリーが4対1で優勝した。その前回大会の東京オリンピックでは、当時小学生だった私も観戦した決勝戦でハンガリーとチェコスロバキアが戦い、2対1でハンガリーが勝った。

メキシコ五輪の3位決定戦はよく覚えている。この試合で釜本邦茂は2得点をあげ得点王になった。他にもサイド攻撃を仕掛ける杉山隆一や的確なパスを出していた宮本輝紀や渡辺正、また懸命にゴールを守ったゴールキーパーの横山謙三の名前は忘れられない。そして、日本が2点目のゴールを取ったあとに、メキシコの勝利を確信して集まった観客のなかから「ハポン、ハポン」というヤケのヤンパチのような声援が起きた。これは当時はまだ「ブーイング」がなく、不甲斐ないメキシコ・チームへの怒りでもあった。

それから、28年後の1996年アトランタ・オリンピックで日本サッカーが奇跡を起こした。サッカー王国ブラジルに勝ったのである。この試合、日本のシュートはたったの4本だったのに対して、ブラジルのシュートはなんと28本! それをゴールキーパーの川口能活が神懸かりというか大魔神のように立ちはだかって、雨あられのシュートをことごと止めた。そして、伊東輝悦が上げた得点を守りきって「マイアミの奇跡」と呼ばれる勝利を得た。この試合も決して忘れることはないだろう。

そして、今回のアジアカップ優勝は昨年のワールドカップでベスト16以上に日本に新たなるステップを作らせる勝利だったのではないだろうか。たかがアジアだけの話で世界レベルの話じゃないないじゃないか、と臍曲りなことをいう輩もいるだろう。しかし、優勝するということに意義があるのである。ましてや、完全アウェイ状態で予選と準々決勝を戦い、準決勝では韓国に、決勝ではオーストラリアに勝ったのだからそれは凄いことではないだろうか。

このように、私にとって忘れられない、そして日本サッカーの重要な試合はすべて海外で行われている。やはり、国内でいい成績を残してもそれは内弁慶にすぎず、海外でいい結果を残すことがさらなるステップにつながるのではないだろうか。

アジアのレベルが底上げされているのは周知の事実である。日本、韓国、オーストラリアの代表選手の多くはヨーロッパのクラブでプレイをしている。朴智星や香川真司のようにチームの主力として活躍している選手も少なくない。こうした個々の選手たちが力をつけたことによって、代表チームもみんな強くなっていった。いまや日本、韓国、オーストラリアなどは欧米南米諸国と戦っても遜色はないだろう。

ひところの日本のサッカーといえば、中盤で球回しばかりしていて「オレさまのパスをゴールできないヤツが悪い」みたいな前向きでないサッカーでしかなかった。それがイビチャ・オシムが監督になった以降、創意工夫の攻撃的なサッカーに変わっていった。それを岡田武史が引き継ぎ、南アフリカで芽を出し、そして今回のアルベルト・ザッケローニが蕾まで成長させた。

今回のアジアカップ優勝は、メキシコ五輪での銅メダル獲得、アトランタ五輪の「マイアミの奇跡」と呼ばれる勝利と並ぶほど日本サッカーの偉業のひとつになったのではないだろうか。しかし、このことに浮かれてはいられない。まだ通過点にしかすぎない。日本サッカーよ、常に挑戦者であれ!