木曜日, 9月 15, 2016

パラリンピックのメダル目標などいらない

写真は今日(9月15日付)の朝日新聞夕刊である。1面トップにリオデジャネイロで開かれているパラリンピックのことが書かれている。

今回のパラリンピックには日本から17競技に132人の選手が出場している。そして、記事には「メダル量産」と書かれている。しかし、日本のメダル目標は当初金メダル10個、メダル総数40個の獲得というものだった。ところが、日本は大会8日目を終わってメダル数は銀7個、銅9個の合わせて16個で金メダルは0である。残り日程は4日なので金メダル目標の10個もメダル総数40個も正直とても無理である。

私は別にバラリンピックを否定をするつもりはない。しかし、なんでパラリンピックまでメダル目標を設定する必要があるのだろうか。パラリンピックは身体障害者の祭典である。ただ、その祭典も義足など道具の発展によって疑わしく思う競技もある。一方で、車いすバスケット、車いすラグビー、ブラインドサッカー、シッティングバレーボールなど健常者でも難しく面白いスポーツもある。それゆえに、私も深夜にテレビ観戦したりする。

ただ、観ながら思ってしまうのがメダル目標が必要なのかどうかということである。別に健常者と障害者を差別・区別するつもりはないが、障害者スポーツはどうみても健常者スポーツより身体的ハンデが大きいように思う。車いすバスケットを見ていても、背の高い選手は普通のバスケット以上に有利であり、日本は相対的に不利であり如何ともしがたい。また、陸上競技にしても、義足の進化進歩は明らかに欧米人の方が上で日本をはじめ東洋人は苦渋を舐めている。

こうなると、メダル目標なんて作ること自体がどことなくおかしいと思わざる得ない。しかしながら「目標なくしてメダルなし」みたいな前時代的な発想を抱く体育関係者は多い。健常者のオリピックにしても「国威発揚」とか馬鹿な解釈のもとにメダル目標を作っている。

いい加減メダル至上主義を止めてもらいたい。

0 件のコメント: